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他人との関わりの中で「考え」を知る、一人では新たな考えは生まれない

かなえ
かなえ

こんにちは、かなえ(@kousakikanae)です。

本日は、独り言を記しておきます。

一人で、眺めるということ

私は小さな頃から「一人」が好きです。

なぜかというと、私にとって目の前のことに没頭するという状態が、とても心地良く感じるからです。

特に、目の前のものをただただ眺めるということが好きでした。

物事が過ぎ去っていく。

同じ場に私も存在しているはずなのに、私とは関係なく物事は展開され、見る見るうちに形を変えていく。

この世界では、同じように見えて一瞬たりとも同じ形は存在しません。

その様がとてもおもしろく感じられ、いつまでも、興味深く眺められます。

そういうこともあって、ふとした拍子に「眺め」に没入することがよくあります。

その様子に気付き、私の視線の先に何かあるのではないかと、視線をたどる方もいらっしゃいます。

しかし、何もない。

その人にとっては不可解であり、きっと首を傾げてしまうことでしょう。

蟻の巣を眺める私と、それを見かけた知り合い

これは昔の話しですが、ある日、私は外を歩いていました。

その時に、ふと道端に小さな穴が空いていることに気付いたのです。

その小さな穴を中心として、無数の黒い点が動いていました。

足を止め、それを見つめます。

まず全体を眺め、これは蟻だなと認識した後、細部に目をやります。

(もし、蟻というものを知らなかったら、この様子を見てどのように感じるのだろうか、なんてことも考えます)

私の住む世界と比べれば、その世界はあまりにも小さく見えました。

でも、私の住む世界と同じくらい、いいえ、それ以上のドラマが展開されているのです。

私にとっては、結構楽しいひとときなのですが、その他の人にとってはどうもそうではないようです。

たまたまその時の私を見かけた知り合いから、あの時に何をしていたのか、と後日尋ねられたことがございました。

なにもない道端で立ち尽くして、どうしたのかと。

私は正直に答えます。

「蟻の巣を見ていました」

すると、それまでの空気がさーっと去っていくのを感じます。

いわゆるドン引きという表現が適切なのでしょう。

相手の顔を見ると気まずそうにしており、会話はそのまま打ち切られました。

違和感が、刺激となる

例えに出した蟻の巣の他にも、似たようなことは度々ありました。

その時の他人の反応は様々です。

病んでいるのかと心配する人、くだらないと一笑する人、生産性がなく無意味だと怒る人などなど。

私が眺めているだけで、なぜそのような反応になるのか、私には理解できませんでした。

私が眺めているだけで、なぜそのような反応になるのか、私には最初理解できませんでした。

でも、それは、きっと相手にとっても同じことなのでしょう。

なぜ眺めるのか、なぜそれをするのか。

しかし、私に言わせれば、なぜ眺めないのか、なぜそれをしないのか、です。

私にとっては、ごく当たり前であり、自然なことだからですね。

でも、他の人にとってはそうではないのです。

当たり前ではない、不自然なことだ。

こういった両者の間には隔たりがあり、「違和感」があります。

不可解なことが現れると、それまで信じていた己の世界がゆらぐからです。

不快なことのように感じることも多いでしょう。

事実、私にとってはそうだったと思います。

若い時は、自分のしていることを無下にされたように感じ、憤ることもままありました。

けれども今は、その不可解や違和感、不快感は、チャンスなんだと考えるようになりました。

それまで信じていた己の世界がゆらぐから、こそです。

異なるものは、新たなるものを生む

これは、不快に感じる相手を無理やり受け入れろ、ということではありません。

目の前からの反響を、自分はなぜ不和だと感じているのだろうか、という「違和感」の方に注目します。

すると、今まで自分が気付きもしなかった考えに行き着くことがあるのです。

自分の裏側を見に行くようなものです。

特に違和感や不快感というのは、刺激としてはとても大きなものです。

そして、人間にとって最も大きな刺激をもたらすのが、同じ人間である他人です。

時には、刺激が強いあまりに毒になり得ることもあるでしょう。

しかし、一人の世界に留まるだけでは、心地良くとも新しい考えは生まれません。

やがては、限界がくるものです。

化学反応が起きるように、違うもの同士がぶつかることで刺激が生まれ、反響します。

その反響が異なるものだった時こそ、それをどのようにして扱うのか。

そこには、己の可能性を広げる、とても重要なヒントが隠されていると考えています。